(書評)日本国憲法誕生・塩田純

塩田純氏が書き下ろした「日本国憲法誕生」の冒頭は、マッカーサーが第一生命ビルにGHQを移して1週間後の1945年9月22日、米国・民間諜報局のE・ハーバード・ノーマン(36歳)がジープに乗って、民間の憲法学者の鈴木安蔵(41歳)を突然、訪問するシーンから始まる。日本近代史の数少ない研究者のノーマンは旧知の鈴木に、「国体護持、天皇制を根本的に批判しなければ日本の民主化はない」と主張し、鈴木はこの時、憲法問題の根本的検討の必要性を痛感したという。

鈴木は、それから10日後の10月2日憲法改正の原稿を書いている。そしてその一ヶ月後11月5日、7人の民間知識人が「憲法研究会」に結集した。鈴木安蔵、髙野岩三郎、岩淵辰雄、森戸辰雄、杉森孝次郎、室伏高信、馬場恒吾。いずれも自由民権運動の流れを受けて日本国内で「民主主義」を考え続けてきた先人だ。民主主義は単なる輸入品ではない。

「7人に共通な点は、戦前から戦中にかけて、思想的な弾圧を体験して、民主主義の重要性を身を以て知っていたということだろう。黒澤明の『7人の侍』ではないが、一つの目的に向かって今まで顔を合わせたこともなかった男達が集まっていく、それは、敗戦後直後のこの時期だけがなしえた歴史の奇跡のような瞬間だった。」

塩田純「日本国憲法誕生」

ノーマンは、こうした、それぞれ「民主主義」を考えてきた日本の民間人の頭脳の扉を開けた。憲法研究会は短期間の濃密な熟議を経て、12月26日、「憲法草案要綱」をGHQに提出している。結成されてわずか1ヶ月、そこにはすでに「主権在民」が謳われ、天皇を国家的儀礼という役割に限定するという、「象徴天皇制」につながる発想がもりこまれた、画期的なものだった。

戦後の各証言からも明らかなように、GHQの憲法案は日本の民間人が投げかけた「憲法草案要綱」が大きな拠り所となっている。しかし、GHQは、「憲法研究会」について表だってコメントを公表することもなく、関係を表に出すことはなかった。また、同じ時期、設置された政府の憲法問題調査会と憲法研究会が情報を交換したという記録はない。政府は、「たかだか民間人の私案」として高をくくっていたに違いない。

この「憲法研究会」の存在は、今年、憲法を考えるとき、共通の土俵として持っていたい。

第一回の極東委員会が開かれて一週間後、日本政府は緊急の記者会見を開き「憲法改正草案要項」を発表した。マッカーサーはすぐに全面に指示し、「天皇制の保持」を表明した。驚いたのは、極東委員会だった。日本の新憲法を承認するのは委員会の権限とされていたからだ。既成事実を積み上げるGHQに極東委員会はどう対処したのか。

極東委員会では日本国憲法公布まで11ヶ国がのべ100回にわたる議論をおこなった。3月14日の会議では、マッカーサーが日本政府案を承認したことに非難が相次ぐ。これに対してマッコイ・アメリカ代表は「承認はあくまでマッカーサー個人的なもの」とかわし、新憲法を承認するのはあくまでも極東委員会だと確認した。さらに、オーストラリア代表が憲法改正の手続きに疑問を示し、憲法は日本の民意によって定められるべきものとし、4月10日、戦後初めての総選挙が行われ、以後、憲法はワシントンの極東委員会注視の中で、帝国議会で審議され、修正がおこなわれていく。GHQはその調整役に奔走する。

その議事録を読めば、日本の軍国主義復活を抑えるために11ヶ国が行った議論は、人類の理想を追い求める究めて真っ当の筋道になっていることが再確認できる。

7月2日、極東委員会は新しい憲法が満たすべき基本原則を発表。その最初が、「国民主権」。極東委員会で「国民主権」を明確にすることを強く主張したのはソ連だった。これを受けて、GHQは日本語訳された日本政府案に明確な「主権在民」が入っていず「志高」という不明確な言葉にされていることを発見。「主権在民」の言葉に明確化するよう日本政府に要求し受け入れられた。

一方、帝国議会では憲法改正小委員会が開かれた。14人の委員からなり各政党が修正案を持ち寄り議論した。その中にあの憲法研究会のメンバーがいた。森戸辰男は憲法案に「生存権」が盛り込まれていないことを指摘した。「国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有す」基本的人権を定めた憲法25条は日本人の手で書き加えられたことは肝に銘じておきたい。世界的な貧困と格差にあえぐ、現在の世界で、「生存権」の重みは増している。。粘り強い議論を通して、日本人自らが「生存権」を追加できたことの意味は、今後、ますます重くなる。

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