(書評)ぼくがいま、死について思うこと・椎名誠

七月にキャンパスで別れた友は、十月の新学期にはもうその姿を見せなかった。夜の繁華街で「じゃあ」と去っていった親友は、その二日後の朝、自らの命を絶った。夜が山場と医師から言われていた父の容体は、夜明け前に急変し帰らぬ人となり、ひとり暮らしの母は、床に就いたまま永遠に目を覚ますことはなかった。自分の身辺に常にいると思っていた何人もの人が、消えていく。歳を重ねるということは、多くの死と否応なしに向き合うことであり、悼むということは、迫っている自分自身の死を意識することではないか。
そういった死に関する様々な思いについて、この本を読んでいた二日間考え続け、「死」という平等で厳粛なものにどう向き合うべきかの指針を得たように思った。椎名誠の最新刊は、六十九歳になった著者が、「死」を前にした心の在り様を読者ひとりひとりに問う一冊である。
遺族の「見栄」を主軸にどんどんと豪華になる日本の葬儀やそれを煽る葬儀産業の手練手管に怒る著者は、数多くの旅の経験から、それぞれの国や地域の葬り方を紹介しつつ、葬るということの根本に在る意味を問う。チベットの鳥葬、インドの水葬、本当にその人の死を悲しみ、心からの哀悼とともに死者を天に送る人しか参列しないという考えが徹底しているイギリスの葬儀等々、各国の葬儀の考え方は深く思慮に富み、形式主義的で、一人の死にまで経済効果を計ろうとする今の日本の葬儀へのアンチテーゼにもなっている。
年間三万人以上の「自殺者」がいるというこの国の今が、けっして豊かでも平和でも安全でも「しあわせ」でもなく、むしろ冷酷で非情ではないのかと著者は問う。
多くの人々が「生きていくこと」に苦しんでいる現実を目の前に、「死」について静謐に考え、亡くなった多くの人々に思いを馳せ、「自分が生きる」ということの意味に思いを巡らせることは、より重要になっているような気がする。この一冊はそのきっかけになるだろう。

文:新山博之 (週間新潮 第2879号に掲載)

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