2023.11.28 (書評)国史大辞典を予約した人々 百年の星霜を経た本をめぐる物語・佐滝剛弘 床が抜け落ちて建て直したという離れの書斎には、夥しい本が足の踏み場もないほどに積み上げられていた。書店に勤めていると、とてつもない読書家に出会うことがあるが、あの白髪の老人もその一人。無知な若僧の私に、たくさんのことを教えて下さった。「群書類従」「徳川実紀」等々、書棚に並ぶ本一冊一冊についての説明は何と面白かったことか。あれから三十年以上たった今でも、その時の珈琲の香りと煙草のけむりの行方は憶えている。注文はいつも広告紙の裏に端整な墨字で書かれていた。あの時の注文も。「新版国史大辞典 全巻」それは、第一巻の刊行までに十四年の歳月を要した日本最大の日本史辞典。全十七巻三十万円を超す注文だった。その新版から遡ること七十年、明治四一年に二十代の新進の学者たちが十二年の歳月をかけて世に出した初版の国史大辞典。その予約者芳名録を丹念に調査し、一万件近くの記載名を地道な努力で辿ることで明治という時代を生きた人々の気概を伝える、示唆に富んだ一冊が、今回紹介するこの本。定価が二十円、今でいえば二十万から二十五万円というこの高額な辞典をどのような人々が購入したのか。一万近くの予約は全国津々浦々。ようやく教育制度の形が出来上がりつつあった時代に、著名な文学者や研究者だけにとどまらず、多くの市井の人々がこの高額な辞典を予約していたことは驚きであり、その一割以上を九州の菊竹金文堂を始めとする全国の書店が予約獲得していたことには、書店員の一人として機を正す思いである。無機質で単調な人名の羅列に見えた予約者名簿は、実は一人ひとりの豊能な物語を秘めているのではないかと著者は問う。国自体が若く、青雲の志を抱く人々が、無垢な心で学問し、その座右にこの辞典が置かれていた。学ぶことが、何より未来に伸びる自身の行先を探ることであり、それはそのまま日本の将来を辿ることだった。現代の我々にとって、この本もまた逝きし日本人の面影を垣間見せてくれる一冊になっている。 文:新山博之 (週間新潮 第2913号に掲載) Tweet Share Hatena Pocket RSS feedly Pin it (書評)ぼくがいま、死について思うこと・椎名誠 前の記事 (書評)ひみつの王国 評伝 石井桃子・尾崎真理子 次の記事