(書評)ソラシド・吉田篤弘

山に向かえば、限界集落。荒れ果てた田畑、初ちた家屋。町に降りれば、シャッター通り。人の往来も少なく、冷えた空気が漂う。かつて、村には祭りで賑わう人々の笑顔があり、町にはシャッターを勢いよく上げる音と、店主らの挨拶の声があった。二〇一五年を生きる私の頭の中には、その頃の日常の風景が今も細かく残っている。人の表情、町の繁盛、路地裏を駆け抜ける子供らの歓声。村を離れ、店を閉じて残された今の停まいは、果して予期していたものなのか。手に入れた利便性は、人々を幸せにするものだったのか。
吉田篤弘という人の書く小説を読むと、いつも失った日常への寂寥がよぎる。彼の最新作『ソラシド』は、心に残ったたとえどんな瑣事であろうと、意味があり、今に連なる大切なものだと教えてくれる。
二〇一二年の“おれ”は、二十六年前の一九八六年当時、ライブハウスを中心に人知れず活動していた「ソラシド」という女性二人組のミュージシャンの足跡を辿ることになる。一九八六年に生まれた腹違いの妹、物じゃなくて過去の空気を売っているような骨董品店のニノミヤ君、タテ場の責任者シシドさん等々、印象深い人々がまるで道案内をするかのように様々な手がかりを“おれ”に提供し、そのやりとりの末に、姿かたちの見えなかった女性デュオの輪郭が靄の中から次第に浮かび上がって来る。一九八六年の空気が、彼女たちの演奏とともに流れ、当時の街の表情、雑音、匂い、光や温度、静けさは、時に楽譜の音符となり記号にもなって時代の音楽を奏でる。時は移り、街の模様は変わっても、過去のそれは、深い暗示と意味を持って、今も日々に溶け込むように続く音楽として存在している。そう言い残して、この小説は余韻ある終りを迎える。
一九八〇年代、路地裏のジャズ喫茶。薄暗く、煙草の煙の立ち込める中で、体を椅子に深く沈めて過ごしていた無意味な時間も、私の人生の中ではそれなりの意味を含んでいるのだろうと本を閉じた。

文:新山博之 (週間新潮 第2984号に掲載)

関連記事

カテゴリー

アーカイブ