(書評)高峰秀子の言葉・斎藤明美

心に残る言葉がある。励ましであれ叱責であれ独言であれ、その言葉が発せられた時の光景を伴って一言一句が甦る。放課後の教室、早朝の事務所、月明りの帰り道……。やがて言葉は心に沁み入り、こんな時ならあの人はこう言うに違いない、ああは言わないだろうなどと思うのだが、すでにそれを問う人はいない。あれは、経験と生き様から生まれた言葉だったと今になって気づくことが多い。
年を重ねてそう思うことが多くなった時にこの本に出会う。
「高峰秀子の言葉」。言葉の主が高峰秀子となれば、重みも数倍に増してくる。
五歳で映画界入りし、自己抑制を余儀なくされ、波乱と過酷を抱えねばならなかった非凡な人生は、秀れた自伝「わたしの渡世日記」に詳しい。高峰秀子は五十五歳で映画界を引退。その後は世間と縁を断ち、何ものにも脅かされず心静かな生活を送り八十六年の生涯を閉じる。
亡くなるまでの二十年間、高峰に心酔し、寄り添い、本人以上に高峰の足跡を精査した著者が、その片言隻句を聞き逃すまいと耳をそばだて、優れた記憶でその言葉の発せられた場面や光景を再現、さらに、言葉の真意を解き明かして見せたのが本著である。
この本を通して読者である我々は、高峰と著者との会話の場に同席することを許され、彼女が美味しそうに喫うヴォーグの紫煙の行方を追いながら、その示唆に富んだ短くも完結した言葉に耳を傾けることができる。
時には研磨された切っ先鋭い刀で一刀両断、「超然としていなさい」と諭され、またある時は、穏かな優しい笑顔で「忙しい時ほど余裕を持たなきゃいけないよ」と宥められる。
丁寧に生きるとはどういうことなのか、身の丈に合った生活をするとはどういうことか、そしていかに老いるべきかという今を生きる我々が抱える喫緊の課題を解決するためのヒントが、身をもってそれを示した高峰の言葉の中に多く隠されている。
高峰秀子の言葉は我々への遺言である。

文:新山博之 (週間新潮 第2932号に掲載)

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