(書評)ひみつの王国 評伝 石井桃子・尾崎真理子

金沢福音館書店は、旧制四高の赤煉瓦の建物がある中央公園の向かい、広坂通り沿いにあった。出版福音館の発祥の地であるその書店には、岩波・福音館を中心とした目配りの効いた児童書が揃っていた。初めて書店の店頭に立った二十代の私に、店長が言ったことは、「棚を触っていればわかる」だった。その日から、棚を理し、新刊を吟味し、売れた本を調べ補充する毎日が始まった。学ぶことの多かった日々の中で、児童書の多くに現われる石井桃子/いしいももこの名は、いつしか児童書売り場の必備書の絶対条件として心に銘記された。
今回紹介する本は、その石井桃子の評伝である。
「熊のプーさん」「うさこちゃん」「ピーターラビット」を始め膨大な量の絵本・童話の翻訳者、「ノンちゃん雲に乗る」や晩年の長編「幻の朱い実」の作者、岩波少年文庫立ち上げの際の編集責任者、数多くの児童文学者を世に送り出した比類のない出版人等々、百一歳で逝った石井桃子の経歴は、まさに巨星と呼ぶにふさわしい。しかし、文藝春秋社の一編集員であった彼女が、どういった経緯でこのような大きな仕事を成し遂げたのか、また生独身を通した彼女の私生活はいかなるものであったのかは、自身のことについてほとんど語ることのなかった彼女故に、知られていない。
著者は、生前、彼女に二百時間に及ぶインタビューを行ない、その訳本・著作はもとより膨大な書簡を精査、また石井桃子と関わりのあった人たちの証言をもとに、この深い森に分け入っていく。著者の踏み込んだ道筋をたどることで、読者は、今に読み継がれる児童文学の傑作が、いかに石井桃子の自己犠牲の上に生み出されてきたかを知ることになる。五百頁以上にもなる本書は、この国の出版文化の恵みを深く考えるに足る一冊である。
あれから三十数年経ち、勤める書店も変わったが、石井桃子の関わった児童書が、売り場の必備書であることに変わりはない。あれから三十数年経ち、勤める書店も変わったが、石井桃子の関わった児童書が、売り場の必備書であることに変わりはない。

文:新山博之 (週間新潮 第2950号に掲載)

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