東京電力福島第一原発から10キロにある山間の小さな集落、福島県浪江町大字大堀。ディレクター後藤秀典が、初めてその風景を見たのは去年の7月だった。
「そこに窯元が座り、ろくろを回していた。その横で、孫が粘土をこね恐竜を作っていた。奥さんは器に馬の絵をかいていた。」
そんな風景がそのまま残っていた。この当たり前にあった風景は、原発事故により激変。大堀は帰宅困難地域になった。
東京電力福島第一原発から10キロにある山間の小さな集落、福島県浪江町大字大堀。ディレクター後藤秀典が、初めてその風景を見たのは去年の7月だった。
「そこに窯元が座り、ろくろを回していた。その横で、孫が粘土をこね恐竜を作っていた。奥さんは器に馬の絵をかいていた。」
そんな風景がそのまま残っていた。この当たり前にあった風景は、原発事故により激変。大堀は帰宅困難地域になった。
6年後の2017年、原発立地の双葉町、大熊町をはじめ周辺自治体の一部地域が次々と避難解除され、それらの地区では、除染が行われ多くの住宅が解体されていった。きれいに整地された土地に太陽光パネルが敷き詰められ、「人々の暮らしが奪われた瞬間」などまるでなかったかのような風景だ。
それと共に取り残された帰還困難区域に関する報道はなくなっていった。しかし実際のところ、浪江町の半分以上は帰還困難区域のままだ。
浪江町に暮らしていた300年以上の伝統を持つ大堀相馬焼を守ってきた23軒の窯元たちはどこに行ったのか。その軌跡を追う。